5-1.私という存在

4章までの中で「私」の存在について語ってきました。虚無ともいえる「私」は、どのように自覚されるのでしょうか。

もし「私」を自覚できるならば、私を自覚する「私」もいるような気がします。私をスクリーンに投影している脳が「私」なのでしょうか?

私とは?

私を映し出しているのが脳だと言っても、何かを見聞きしたり匂いを判別する部分、記憶したり、情報を整理し思考に結びつけるような領域など様々です。

記憶として引き出された情報が意識の上ってくる前に、それが快なのか不快なのかを識別し、欲や怒り、喜びなどの感情を引き出す偏桃体という部分も脳の一部です。感情のパワーを思考や行動に繋ぐのも脳によるものです。

心を感情が支配してから、後付けで思考を紐づかせるのは大脳新皮質という部分です。

さて、どの脳が「私」なのでしょうか?

脳内のどこか一部の領域や機能を切り取って、そこが「私」だと断定はできそうにありません。各種反応が統合された結果が「私」のような気がします。

「私」

「私」とは、脳が反射的に各種情報に対して反応した結果の現れです。いってみれば、風が吹くのと同じ自然な営みの中に「私」があるのでしょう。

ただそれだけのことです。

夜空を見上げると星が輝いて”見える”のと同じような自然現象です。

自然現象

「私」という特別な何かが存在しているわけではありません。

空に雲が流れている、その雲の色や形が網膜に投影されているのと同じです。風が頬を撫で、空気の分子を肌の触覚が感じているようなものです。

決して雲そのものが私ではなく、風そのものが私でもないのです。

あるようで無い

私とは観念が映した架空の存在です。もちろん、風が吹くように、私もきっと存在しているのでしょう。でも、頬を撫でた風は、風そのものではなく皮膚が感じた触覚です。

私も風のようなものですね。

脳の神経細胞が電気的なパルスをスパークさせているだけ、私とは実在ではなく、単なる現象です。

しかしながら、実に見事なまでに人間の脳は、「私」という実在が意志を持ち、感情を発動し、考え行動しているような演出を繰り広げています。

「私」とは何か

脳が物体だとしたら、それをどこかで何者かがコントロールしているのでしょうか。そして、実はその何者かが「私」の実態なのでしょうか?

宇宙の彼方、どこか遠いところで、人の脳を操っているエネルギー体が存在するのでしょうか?

根拠のない妄想です・・・

他力

「私」とは自然の大きなうねりのなかの現象のひとつにすぎません。

独立している、あるいは自律的な実在ではなく、無為自然の現れ方のひとつが「私」といえるのではないでしょうか?

自発的に物事を考えたり、判断したりしているように錯覚していますが、脳の反応が現れているだけです。

それでもあえて、私という主人公の立場から表現してみれば、私とは完全なる「他力」により動いているということになります。

全てがフィクションだったとは

私自身も、隣にいる彼氏や彼女も、学校の先生も、会社の上司も、誰もかもがフィクションだったとは、実に面白い発想だと思いませんか?

個々の人間だけではありません。それらの集合体である社会もです。

あるストーリーに没入していた後、「このドラマはフィクションであり、実在の人物や団体では・・・」とテロップが流れてきたら。

夢の中・・・

荘子は二千以上の昔に「大覚ありて、しかる後に此れその大夢なることを知る」という教えを残してくれました。

考えるほどに深遠なことです。

そう考えている私も、目覚めてみれば夢だったと気づく日があるのかもしれません。

遡れば、三日月が満月になることも、潮の満ち引きも、そこに人間は物語を見出してきました。脳内のドラマを展開してきました。

自然の因果律

おいしそうなスイーツを食べている女の子も、満員電車でイライラしているオジサンも、唯々自然な因果律に従い反応してます。

目で見たものは実体ではなく、反射した光が網膜当たり視神経を通って脳内で映像化された結果です。

耳で聞いた音は音源そのものではなく、音の波動を鼓膜が拾い、その振動が聴神経を経由して脳内で合成されたものです。

匂いにしても、臭覚として脳内で合成られた感覚です。皮膚をつねったときに感じる痛みも、刺激が痛覚神経を伝わり反応しているだけであり、皮膚に加えられた圧力そのものではありません。

地球の上でリンゴが木から落ちると地面に落下します。同様に「私」もまた、自然が生み出す現象のひとつです。

私自身の好むと好まざるとに関わらず、快も不快も、怒りも悲しみも喜びも、自然に勝手に反応しているだけです。自分ではコントロールできない訳ですよね。

だから何なんだっ!!

実体であろうがなかろうが、脳の演出だろうが、私という自覚のもとに生きているのだから、それでいいじゃないか。そう思う方が大半だと思います。

はい。もちろんその通りです。

ただし、実態ではないものを実体であるかのように信じ、それゆえ観念に支配され苦しんでいる、という事実を認識することで得られる効果もあります。認識することで苦しみから逃れ、平常心で生きるという選択が可能になります。実体というか、真実に気づくことが出来れば、これまでよりもずっと楽に生きていくことが出来ます。

それに越したことはないと思うのですが、如何でしょうか?

引き続き、もう少しこの連載を続けてみたいと思います。

 

※本内容の全て、または一部を、著作権者に無断で複製・転載・配信・送信、或いは内容を無断で改変する等の行為は、著作権法によって禁じられています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました