妄想

妄想

5-4.本能の抵抗

苦しみを自覚できない「私」は、煩悩に刺激されるがまま振る舞い続けます。慢心や欲や怒り、迷いが、その時々の観念となり「私」を支配し続けます。人は気づけないままに、煩悩に囚われ、苦しみにあえて執着し続けているのです。
妄想

5-3.輪廻するカルマ

仏とは「ほとけ」と読みます。これは死ぬことですべてのカルマ(記憶)が「ほどける(解ける)」ことから、「ほとけ」と読むようになったと聞いたことがあります。生涯蓄積され続け複雑に絡まったカルマが解けて無に帰すという仏教的な考え方です。
妄想

5-2.観念の個人差について

生まれたから現在に至るまでに歩んできた人生が、その人に生じる反応や心の中に生まれる観念となり現れます。支配する観念の人による違い、個体差とは、記憶として焼き付けられた情報と、それが引き出される頻度により異なります。もちろん、変えてゆくことだって可能です。
妄想

5-1.私という存在

「私」という特別な何かが存在しているわけではありません。空に雲が流れている、その雲が色なり網膜に投影されているのと同じです。風が頬を撫で、空気の分子を肌の触覚が感じているようなものです。決して雲そのものが私ではなく、風そのものが私でもないのです。
妄想

4-2.言葉の性質

「いま・ここ」を真実として捉えているつもりでも、言葉を使った瞬間、真実はリアリティを失ってしまいます。過去の経験が言葉であり、その適用範囲内で現実を言葉が置換えてしまいます。真実を捉えている”つもり”にさせるのが言葉の特性といえるでしょう。
妄想

4-3.反芻思考

私は脳が作り出した虚像であり錯覚だとしましょう。自己意識は脳が作り出したアバターであり、本当は私などどこにもいないと考えてみましょう。ただ脳があり、体があるだけです。ここに現代社会で存在意義の薄まった苦しみなどの観念を少なすするためのヒントが隠されてはいないでしょうか?
妄想

4-1.私の意識下にない「私」

欲望にしても、怒りにしても「私の意志」としてではなく、自然に発生している感覚です。たとえ不道徳なことでも、恥ずかしくて他人に言えないようなことでさえも、ありとあらゆる観念が絶え間なく浮かんでは消え、浮かんでは消え続けているのです。あなたは自ら好んで苦しみのもととなる怒りを選択していますか?
妄想

3-6.迷い

現実を見失い、苦しむのが迷いという煩悩の正体です。過去や未来という時間軸を意識できる人間であるが故の苦しみが迷いです。 そして、時間軸のみならず、言葉もまた人間を迷わせます。 人は言葉を使い、言葉により生きています。何事も言語化することで、認識しようとします。身の回りの出来事を全て言葉により意味づけし生きています。
妄想

3-5.慢心

慢心という煩悩は平常心を見失わせ、欲と怒りを呼び寄せてしまいます。動物としての人間という事であれば、自分自身の優位性が命を保ち、子孫を残すために必要な機能であったと思います。でも、現代社会においては、苦しみを引き寄せる副作用の方が強く働いてしまいます。慢心が煩悩の分類される理由がここにあります。
妄想

3-4.欲

もし何か欲しいものが手に入り、欲が満たされると、その瞬間、快楽が脳を駆け巡ります。それと同時に、これまで欲として自分を支配してきた刺激が一気に無くなってしまいます。 欲が満たされた瞬間の快楽と、満たされた後の物足りなさが交差し、再び欲の妄念に取りつかれてしまいます。満たされるとさらなる刺激を求め欲は肥大化してゆきます。そしてまた、欲に取りつかれ、心はより一層欲に拘束され、「もっと欲しい、もっと刺激を」といった煩悩に取りつかれてしまうのです。