1-7.心

私たちの意識とは、脳による自己統制にどこまで介入できるものなのでしょうか。

日頃私たちは、多くの時間を、自覚することなしに過ごしています。ありきたりのことではありますが、心臓の動きも、呼吸も、意識の外でコントロールされています。自分自身の意志で心臓の動きを操作することはできません。

冷静になるために心臓をゆっくり動かしたり、全力疾走の前に予め拍動を速めようなどといったことは不可能です。瞑想をして心を落ち着かせ、あるいは準備運動で心拍数を上げるといった間接的な行為は可能でしょう。しかしながら、直に心臓に働きかけることは出来ないでしょう。こうしたことは、心臓のみならず、肝臓にも腎臓にもいえることです。

筋肉の場合はどうでしょうか?手足ならば、随意的に動かすことができます。体の中で唯一、意思による操作ができる器官は筋肉です。手足のみならず、意識して横隔膜を動かし深呼吸することもできます。眼球を動かし、視線を変えることも可能です。アゴや舌を駆使して、食べ物を咀嚼することも意識的に行えます。

でも、筋肉の動きに関しても、そのすべてが意識下で行われているわけではありません。

例えば、野球選手が細いバットを振って時速150キロ近いスピードの小さな玉を打ち返す場合はどうでしょうか。バットを振る瞬間に、もし自分自身の意識を介在させようとしたら、たちまち動きがぎこちなくなってしまいます。インパクトの瞬間、筋肉は無意識の中で収縮し、骨格が連動し、足腰や手足が動きます。意識が介在することなく、バットでボールを打ち返します。

諸行無常に流れる心

肉体のみならず、心も気ままに反応しています。さまざまな観念が、自由に浮かんでは消え、さらには観念同士が絡まり、複雑な反応をします。観念同士が絡まり渦巻いています。

目の前の出来事に呼応して、快や不快の情動が沸き起こり、喜怒哀楽の感情が触発され、それらに意味付けするかのように、観念が心に発生します。

いつも心は混沌(こんとん)としており、諸行無常の流れのままに、思いが気ままに通り過ぎてゆきます。

自分の意志で動いている”つもり”なだけかもしれない

私たちは通常、自分で物事を考えたり、判断、選択していると信じています。そして、目の前の相手を好きになったり、攻撃したりなどの行動をとっています。

でも、よくよく観察してみると、そこには主体的なものは存在せず、自動的な反射が繰り返されているのではないかと思えてしまいます。

肉体の外からの情報が、目や耳、鼻、舌、皮膚などの感覚器官から入力され、その情報が刺激となり脳が反応します。脳はその刺激が有益なものなのか、または生命を脅かすものなのかを瞬時に判断します。判断の基になるのは、本能や経験により蓄積された記憶です。

その判断は、快、または不快という情動となり、それに引き続き感情がわき起ります。感情は次の行動のための推進力です。そして、怒りや喜びだけでは単純な反射にしかなりえないため、観念という意味づけがなされます。

この観念というものにより、人は複雑に思考を絡ませ、個性的な行動をとるのです。

外からの刺激に触発され、観念が発生するまでの作用は、ほんの一瞬のうちに起こります。まさに、反射的反応として脳が働くのです。

それもそのはずで、肉食獣に襲われそうになっているのに、「俺の目の前にいるライオンは、実は優しいやつかもしれない」などと考えていたら、命がいくつあっても足りません。原始時代の話を持ち出しても仕方ないじゃないかと、思われた方もいるかもしれません。しかしながら、人間はロボットではありません。命を存続させるための本能が、動物である人間のメインシステムなのです。

ライオンに襲われる場面では、逃げるか戦うかしかないですよね。もし私なら、一目散に安全な場所へ逃げようとするでしょう。そして、この瞬間的な反応に、自らの意識が介入できる余裕などないはずです。

私たちが迷い苦しむ理由

ライオンに襲われる危険がない、現代の社会環境に生きる私たちにも、動物として自らの命を守り、生き永らえ、子孫を残そうとする本能が備わっています。

机の上で理論的に物事を考え、思考も行動も、感情だって自分自身の支配下に置かれていると思うことが、現代社会における一般的な感覚なのかもしれません。

でも、そうだとしたら、何故人間は苦しみから解放されないのでしょうか。

自分自身の意識が、「私」という存在を掌握しているのであれば、怒ることも、迷うことも、慢心することもないはずです。すべての出来事を理性的に処理し、たとえ思い通りにならない出来事が起こったとしても、苦しまず論理的に解決できるはずです。しかし、人はみな、迷い、悩みながら生きています。なぜ人は、自分自身の意識で心をコントロールできず、苦しみながら生きているのでしょうか。

そこには、思い通りにならない脳のシステムが、私たちを苦しめているという事実があるのです。脳のシステムは、自己意識の外にあります。そのシステムが結果としてもたらす状況を、自分自身の仕業(しわざ)と思うがゆえに迷い、苦しんでいるのです。

結果と意識のはざま

自己意識とは虚像でしかなく、脳の仕組みがもたらした結果に対し、「私が考えた」、「私が行った」などといった認識が付け加えられているに過ぎないのです。情動や感情、観念の発現が瞬間的な出来事であるがゆえに、「私」という錯覚を、その出来事に付加しても違和感をもたないのでしょう。脳がシステマティックに意識を作り出しているだけなのです。

その脳が私自身だといった反論もあるかもしれません。しかしながら、外界からの刺激と、心に現れる観念との間に、自己意識は介入できていないのです。やはり、私という自己意識は、脳が心に映し出した幻影と言わざるを得ません。

脳内の神経細胞に電気信号が流れる、ほんの一瞬の時間に、私という自己意識が考えを巡らせ、選択、判断している余裕など、一切ないはずです。

生命維持プログラム

外界からの情報が感覚器より入力され、その情報が生命にとって快いものか、あるいは不快なものなのかを、脳は反射的に察知します。次に、欲しいという欲や、怖いという恐れ、戦いたいといった怒りなどの感情が現れます。そして、これら一連の反応に意味付けするように、観念が加えられるのです。

これは、脳に仕組まれた、生命維持プログラムです。

獲物を見つけると快の情動と、食べたいといった欲望が現れます。また、反対に生命を脅かす状況に遭遇すれば、危険な気配を察知し、不快感を持つでしょう。そして、そこから脱するために怒りの感情が高まります。

欲が引力だとすれば、怒りは斥力です。このような感情の力を行動に結びつけるのです。

情報入力から観念の現れまで

情報が脳に入力されるためには、外界の出来事を検知しなければなりません。視覚、聴覚、味覚、痛覚などのセンサーが動物には備わっています。特に臭覚は発生学的に、他よりも早くから発達した原始的な感覚器官です。そのため、においは脳にダイレクトに働きかけます。アロマオイルなどが、メンタル面に効果があるのはそのためです。心地よい匂いが、脳の安定に作用するのでしょう。

入力された情報が刺激となり、快か、不快かが判断されます。そして、快い、または不快に関連した情報が記憶から引き出され、それに伴い感情が現れます。

その時に引き出される記憶は、個々人の過去の経験に基づく情報です。人それぞれ経験の違いはありますので、同じ情報でも、現れる感情の種類や度合いには個人差があります。

感情は行動を促す強い精神エネルギーです。特に怒りなどは、我を見失うほど強く現れます。命を守るために必要不可欠なものだからでしょう。また、欲しいといった欲も、食を得たり、異性を求めるために、なくてはならない感情です。

感情とは、自己意識から見て受動的なものであり、能動的に怒ったり、悲しんだりすることはありません。怒りというものは勝手に火が付くのであって、能動的に怒ることはできないでしょう。悲しみから抜け出せない時も、自分から心を動かしているのではないことを観察できます。

そして、感情は行動力の源です。心を動かし、行動を促すための精神エネルギーです。感情が行動につながります。ただし、ただ感情的になったから行動したというのでは、人間らしくありません。そこで、人の脳は感情や行動に対する意味付けを行うために、観念を動かします。なぜ怒るのか、なぜ欲しいのか、なぜ悲しいのかなどの理由が、観念により加えられるのです。

ちなみに、観念は言葉と密接に関係します。観念が人間にだけあり、他の動物にはない理由が、ここにあります。言葉という媒体を用いて、その時々の状況に意味付けをしているのです。言葉と観念の関係については、また別の章でお話ししてみたいと思います。


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