1-5.誰が操っているの?

私たちは日頃、自分自身の意識で物事を判断し、選択していると信じ、それを疑うことはありません。しかし、本当は何者かに支配されているのです。「私」という見せかけを、私自身と思い込まされ、あたかも自分で考え、行動していると錯覚しているのです。

迷い、怒り、悲しみ、喜んでいたのは、架空の主体を「私」と思い込ませるための刺激にすぎません。

支配されていることに気付かず、感情のもたらす苦しみにもがき、迷い、欲に取りつかれ、慢心し、ひたすらに私自身を主体と思い込んできた、そのカラクリを知りたいとは思いませんか?

無意識の中で支配している誰か

人間には、動物としての生命維持の仕組みが備わっています。肉体を維持するために食欲を満たし、種を保存するために異性を求めます。また、危険を回避するための逃避反射といった本能的な仕組みも備わっています。

さらに人間には喜怒哀楽といった感情があり、物事を考察する能力が際立って発達しています。これらはみな生存と種の保存のための本能が基になっています。

人間のみならず、他の動物にも、食べたいという欲や、敵を威嚇するための怒りなどの感情はあります。しかしながら、そうした感情に、「私」という自己意識は伴わないでしょう。

動物の場合は、本能に突き動かされる反射的な行動がすべてです。愛情表現も、威嚇行為にも、そこに「私」という意識は介在しないでしょう。

人間だけにある「私」

人間に限っては、何かを思うときにも、考える際にも、行動するときにも、常に「私」という自己意識が存在します。生きること全てにおいて、「私」がその主体となります。

「私が思う」、「私が考える」、「私が行う」といった具合に、常に「私」が存在します。

この人間特有の、私という主人公は、いったい何者なのでしょうか?

頭の中に小さな私がいて、ロボットを操作するように肉体を動かしているのでしょうか。そんなはずはありません。

では、犬や猫には存在せず、人間にのみ「私」があるというのは、どうゆうことなのでしょうか。

「私」って存在するの?

「私」が実体ではないことはお分かりになるかと思います。犬も人間も同じ動物であり、一方にのみ実体としての私が、まるで骨や肉のごとく実在するという人など、世界中探しても何処にもいないでしょう。

当たり前のことと言えば、まさにその通りなのですが、「私」は実在しません。物理的な実体ではありません。

「私」などいないにもかかわらず、誰もがみな「私は」と常に思い続けているだけなのです。

脳が生み出す観念という世界観の中で、「私」が存在すると信じていただけです。

「私」の意味

それでは、なぜ人の脳は「私」という主体を必要としたのでしょうか。

私がいるということは、あなたがいるということにもなります。もし、私が遠い銀河の果ての見知らぬ惑星に、一人で生活しているとしたら、「あなた」という概念は存在しないでしょう。自他という観念はなく、「あなた」がいないのであれば、「私」という感覚もない世界に生きることになります。

しかし、「私」も「あなた」も、地球という星に生きています。そして、地球という環境を生き抜くために、人間の脳は独自の進化を遂げてきたのです。他の動物にはない、「私」という観念を獲得し、集団社会を形成し、生存範囲を広げてきたのでしょう。

集団で行動する動物は、人間以外にも存在します。しかし、その中にあって、人は自己意識を認識することで、特異な、高度に発達した社会を築き上げてきました。

高度な集団社会を形成することで、発達した文明を創り上げることができたのです。

地球という環境の中で生き抜くための手段として、人間の脳は「私」という存在を演出し、利用してきたのです。

「私」の主導権

実在しない「私」と、「私」を信じている自分自身との間に、なにか矛盾が生じることはないのでしょうか。

苦悩のない人は、世界中を探しても見つけ出すことはできません。経済的に不自由なく生活できている人でも、社会的に高い地位についている人であっても、人それぞれみな、何かしらの困難を背負い生きているものです。

この苦悩と、「私」について考えてみましょう。

乗っ取られる私

人は感情という刺激により、常に「私」を自覚しています。感情にもさまざまな種類がありますが、怒ることを例に考えてみたいと思います。

怒りという感情は、瞬時に爆発します。「よし、怒ってみようかな?」と悠長に構えている暇などありません。瞬間的に怒りは沸き起こり、体は攻撃態勢に入ります。

あとになり自分自身を顧みると、怒りが発生した瞬間に、自分自身の意志や考えが介在する余裕など、全くなかったことがわかります。

まるでプログラムされているかのように、感情的になり、心臓の鼓動は高鳴り、呼吸が荒くなります。

このことからわかるように、怒りを発する瞬間、感情が現れる瞬間に、主体的な「私」は存在していません。全自動で起動する感情の力が心を支配し、行動を主ります。自分自身の支配権は、感情に掌握されてしまうのです。

心の苦痛

感情は「私」を実態であるように演出するための刺激です。そして、その刺激が大きければ大きいほど、激しく心は揺さぶられ、抱えているストレスや悩みを、一時的に吹き飛ばしてくれます。

怒りにかられたとき、相手を打ち負かした後、気持ちが高揚し、スカッとした気分を味わえることがあります。

しかしながら、怒りの業火に焼かれたのは相手ではなく、自分自身です。怒りにより、清々とした気分になっていたとしても、それは我を見失い、怒りに支配されていた状態を気づけずにいるだけのことです。

気持ちが落ち着いてから初めて、感情による強烈な支配と、疲労感、心の苦痛に気づくことができるのです。もちろん、心の苦痛を感じたのは、「私」に他なりません。

怒りだけではなく、悲しみも、欲望も、慢心も、強い感情支配と、それに伴う苦痛が存在することに変わりありません。

いかがでしょうか。

「私」は決して主体的な存在ではなく、意のままに操られていることがある、ということを理解できたでしょうか。支配され、心に苦しみまでも与えられているのです。

巧妙なプログラム

感情を例に挙げましたが、感情に引き続き心に浮かび上がる観念についても同様です。

これらの刺激は、心というスクリーンに「私」を映し出すために、脳が仕組んだプログラムです。刺激を常に与え続けないと、投影された「私」は消えてしまいます。常に「私」を演出し続けるために、快・不快、喜怒哀楽、観念・思念が、絶えずさまざまな形で浮かびあがります。

完成度はともかくとして、これこそが人の脳が、進化の過程で獲得してきた本能なのです。他の動物にはない、人間だからこそ持ち合わせている自己意識が「私」なのです。

それでは、私たちは感情や観念の支配から逃れる術はないのでしょうか。生きている限り、心の苦悩から逃れることはできないのでしょうか。


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