先日、帰宅途中の満員電車でこんなできとごがありました。
前後左右に動くことができない状態で電車が動き始めたのですが、当然ながら動いている電車内に立っているのですから、私のまわりに立っている人同士が揺れに合わせて押し合う形になります。
客観性が通用しないシーンが存在する
お互いさまと言えばいいのでしょうか、仕方のない状況です。
このような状況で、私の後ろの人が電車の揺れとは違う動きで私の背中を押してきます。よくあることです。自分自身の立っている、いってみればパーソナルエリアを侵害されたくなくて、他人にある程度攻撃的になる人は一定数います。
そんな状態である駅に停車しました。入口付近にいる人は、私も含めて脇によけるか或いは車内にいったん出ることになります。
そのとき、私の後ろにいた人が人の流れに押されて私の前に移動してきたのですが、怒りに満ちた形相、攻撃的な目で私を睨んできました(とても気持ち悪い目で睨んできたといった印象です)。
ほんの数秒のできごとだったのだと思いますが、一瞬にして私自身も不快感を覚え、相手の目つきをしばらくの間、記憶から拭い去ることができませんでした。
状況を客観的に捉えれば、満員電車という性質上押されたり触れ合ったりすることは避けがたいことだと思います。如何ともしがたいなかで、個人のエゴのようなもの、しかも怒りという感情をぶつけられても、不快感意外には何も残りません。それがエスカレートして暴力沙汰に発展する事さえ想定できます。
このようなケースにどのように向き合えばいいのでしょうか。
不意に出くわす他人のエゴや感情
もちろん平静に状況を判断し、攻撃的ならない様に、また他人に優しく対することができるよう意識している人だって存在します。
しかしながら、心の備えもない状態で不意に不本意な状況に出くわしてしまうこともありますよね。
もし私が神様ならば
一瞬のうちに怒りの囚われた人の心を穏やかにできるような能力があれば、それに越したことはありません。
例えば、攻撃的な感情や態度を突き付けられても穏やかな目を相手に向けることで何かしら悟ってもらえるような。
残念ながらまだまだ未熟な私のようなものに者にはそのような力は備わっていません。むしろ、反射的に睨み返してしまい、それでも相手の視線に怯んで目を背けてしまうのが関の山です。
すべての人を悟らすことは出来ないのかもしれない
自分自身が神様出ない限り、相手に穏やかに接したとしても、その相手は何も気づかないでしょう。少なくともその場面においてはどうにもなりません。
そうであれば、自分自身がどのような心の持ち方をすべきなのか、または日頃から準備していればいいのかを認識することが、まずは大切なことにだという気がします。
エゴや感情による囚われは脳というモノが作り出す情報
なんの因果も関連性もない、ただ同じ電車の車両に乗り合わして、そこで不快な思いをしてしまう。
冒頭のほうでも触れましたが、このような出来事は少なからずあり得ますし、あるいはこうした人間は一定する存在するものです。
そして、そこでネガティブな影響を受けてしまうことを私たちは想定しておく必要があるのでしょう。想定できれば心の準備が整い、ある程度のことは受け流すことが可能になります。
心の準備
自分自身のエゴから抜け出すことができず、感情に囚われ、それを他人に向けてくる、そのような人間に出会ったときは、エゴも怒りも全て脳が作り出す情報に過ぎない。その情報を作り出す脳はただの物体である。
私としてはこのように事象を捉え対処しようと考えます。
これは単に自分自身への言い聞かせ(言い聞かせることで無理に状況を受け入れようとする)のではなく、純粋な事実です。
人を主る、とくに心のあり方や行動は脳が指令を出しますが、それは地球上にある、または宇宙にポツンとある脳とうモノが発している情報です。
スピリチュアルに人や魂を捉えることもできますが、マテリアルとしての脳という捉え方も間違ってはいません。
一定数いる囚われのマテリアル
さまざまな状況において、自身を客観視できず、あるいは自分自身の攻撃性などに気づくことができず、他人を不快にしてしまう人間を変えてあげようとする必要はないのかもしれません。
不快感を与えてくるようなヒトに出会ったときは相手の感情に感化されず、あいてと同様の感情で反射的にならず、あなた自身が不快感を与える人間になること無く、目の前のできごとをサラッと流し去りましょう。
相手があなたに向けてきた自我や感情は、相手の脳や体というモノが発したクダラナイ情報として捨て去ることが賢明です。
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