いまさらといった話になるかと思いますが、世の中いたるところで機械化・システム化が進みんでいますよね。デジタルトランスフォーメーションなんて国策として進められています。
物事をいかに効率化させようかといった試みが世界中で絶えず行われています。
こうした営みのお陰で、昔であれば治らなかった病気でも治癒できたり、従来であれば撮影できなかった場所でもドローンにより空撮できたりします。これ以外にも様々な恩恵を私たちは享受していますね。
これらのことをすべてひっくるめて、文明と呼べばいいのでしょうか。
便利な世の中
私たちは行こうと思えば世界中のどこにだって行くことが出来ます。それはリアルな場所だけではなく、メタバースと呼ばれる仮想空間も含めてです。
よくよく考えてみれば、現実世界と呼ばれる場所であっても、それを人間の脳がイメージというスクリーンに再構成して理解しているのだから、いまさらメタバースでもないのかもしれませんね。ただ、それを機械的に目や耳で感じることが出来るようになった、言い換えれば脳が外部に作り出した拡張領域が仮想空間だったりする訳です。
文明の恩恵
そんなこんなで、私たちはとても便利な社会に生活できていますし、この先それは更に発展してゆくのでしょうね。
そんななか、ふと個人を見た場合はどうでしょうか?
効率化の連鎖
便利なツールに囲まれた私たちは、それにより行動自体も効率化され、さまざまな事柄に対応する時間も短縮されました。
しかしながら、そのようにして生み出された余剰時間は私たちを幸せにしているのでしょうか?
スマートフォンでせわしなくやり取りされる会話。もしこれを手紙にしたなら、返事は週単位で待つことが出来るでしょう。ところが、LINEやその他SNSなどによるコミュニケーションでは、せいぜい待って1~2時間といったところでしょうか。
せわしない世の中ですよね。ときによっては、誹謗中傷などのいじめの対象にさえなってしまいます。
せっかくの余剰時間も、なんだかくだらないことに使われているような気がしませんか?
恩恵だけとは言えない便利さ
便利な世の中は私たちを短気にしてしまい、他人を攻撃の対象とみなし許せなくさせてしまう面も併せ持っています。
人の心は不完全なもので、効率化をもとめることで精神のバランスを崩し不安定になってしまうことが多々あります。
何が奪われているのだろう?
私たちを幸せにしてくれる人間のつくりだした文明というものに、もしかしたら私たちの心はついていけないのかもしれません。
確かに文明により豊かな食生活を与えられ、安定した社会活動ができるようになり、冒頭で述べた通り昔なら助からなかった命でさえ医療の発展のお陰で救うことが出来るようになりました。
まあ、それを否定することは誰にもできないでしょうけど、一方で効率化を優先させるといった人間の意識は狡猾さをも生み出してしまいます。
現代社会に生きる私たちのみならず、もしかしたら1,000年以上前の太古であっても同じことがいえる気もしますが。
図りごとが心に芽生える
そもそも人には「もちまえ」という働きが備わっていたはずです。あえて競争しなくとも、ちゃんと自分自身を見つめることができれば、人それぞれ心は平穏であり続けることが出来るはずです。
あれ?それじゃあ、別に遠くの相手とリアルタイムで話が出来なくとも、遠い世界に飛行機で飛んでいくことができなくても、それはそれで楽しく暮らすことができるのかもしれない。そんなことが思えてきます。
でも、効率ということが知らず知らず心を支配してしまうと、人に本来備わっているはずの大切な何かが奪われてしまいます。
元来あるはずの「もちまえ」のような各自の人間性が見えなくなり、イライラとした斥力が心を埋め尽くしてしまいます。
文明が生み出した斥力
斥力とは相手を押しのけようとする力です。または、他人のみならず自分自身の心さえ受け入れることが出来ない状態にしてしまう怒りのような感情です。
心が自分の体から離れていってしまい、どろどろとした欲望を楽しみのように感じてしまうといったことを苦しいとさえ思えなくしてしまいます。
後戻りできない文明ではあるけれど
こんな理屈めいたことを言ったところで、いつの時代ならよかったの?なんてことになってしまいますよね。でも時間を遡ることは出来ないし、ひたすらに効率を求めようとする社会を変えようったって、そんなことも無理ですよね。きっと。
限度を自覚する大切さ
私たち人の心が効率化の名のもとに苦しまないようにするために、苦しみに気づくたまにはどうしたらいいのでしょうか。
そのためには「限度」をどこに設定すればいいのかを考えることが必要かと思われます。
機械化・システム化に任せる分界点
どれだけ世の中が効率化され便利になったとしても、他人やまして機械に食事を代わってもらうことは出来ません。
食事のみならず、睡眠だって、排せつだって自分自身で行わなければならないのは至極当然のことです。
そうしたことをわきまえずに、何でもかんでも便利にするのが正解だと勘違いしてしまっているから、心が苦しみに蝕まれてしまうのです。
ですから、本当に必要なこと以外、例えば病気を克服するために薬を開発するなど不可欠な事以外は、自分で行うことが大切なのです。
手間をかけることは人生を楽しむこと
その分界点、他に任せる限度をわきまえ、常に判断して行動することを実践しましょう。
そして、あえて効率を求めない、手間を楽しめる、そんな生活様式を見つけてみませんか?
そうすれば、誰かに何かを変わってもらうとか、時間を短縮することそのものが幸せだという錯覚に気づくことがでしょう。
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