1-1.私のなかの無自覚

生活の中で何かを見聞きし、物事に触れるたびに、さまざまな思いが心をよぎります。いろいろな考えが頭の中をめぐります。

そして、次の瞬間には、喜びや、怒り、恐れ、悲しみなどの感情も湧きあがります。

また、笑ったり、飛び上がったり、逃げたり、泣いたりといった行動も伴いますよね。

これらの反応は、どれも瞬間的なもので、決して何らかの自覚のもとに行われているわけではありません。

だとしたら、無自覚のなかで、私はそこにいたのでしょうか。

私の中の無自覚って、私?

無自覚

外界からの刺激に対する、心や体の反応は、人それぞれに異なります。また、同じ人であっても、精神状態や体調、そのときおかれている環境によって、心や体の反応が異なることは、誰もが経験しているのではないでしょうか。

心を揺さぶられ、感情的になり、喜んだり、悲しんだり、迷ったり、不安になるのは、人として普通にある反応です。

何かに心を動かされることもなく、それに伴う行動などもなければ、「私」と呼べるような主体を見出すことができません。

何かのきっかけになるような情報が、目や耳、鼻、皮膚、舌から脳に入力され、反射的に快いとか、不快だとかを感じるのは、当たり前のことですよね。

そして、快・不快という単純な反応の次に、感情というものが浮かび上がります。怒り・恐れ・喜び・哀しみ・驚き・迷い・不安など、何かにつけて感情というものが、外界からの情報に紐づけられます。

勝手に浮かんでくる何か

私たちの頭の中は、常に何かしらの思念のようなものがうごめいています。

瞑想状態に自分自身を入り込ませ、心を空っぽにするなんてことは、なかなかできることではありません。よっぽど修行を積んだお坊さんでもなければ、生涯経験することはできないでしょう。

静寂の中にたたずんで、どんなに心を静かにしてみても、私たちの頭、あるいは心の中には、何かしらの思念や観念といったものが、現れては消え、消えては現れ続けます。

快・不快は原始的な反応

「我慢していたけど、怒鳴ったら気持ちが清々した。」

「とてもショックだったけど、泣いたらすっきりしました。」

こんなことを、日常生活の中で耳にすることはありませんか?

本当に怒ったら清々したのでしょうか?泣いたらスッキリしたのでしょうか?

平常心を見失い、怒りや悲しみに”支配”されている状態が快楽だと感じることに、何か違和感を感じませんか?

快い、不快といった反応は、脳に浮かび上がる最も初期的な感覚です。感情よりも、観念よりも先に発動されます。

やはり、人間も動物です。動物は厳しい自然を生き抜く中で、自分自身の命を守り抜き、種を存続させるために、常に快・不快の本能に従い反応しつづけています。

獲物にありつくためには、血の匂いをかぎ分けます。その瞬間、脳内には「快」の電気信号が駆け巡ります。草食動物だって、おいしそうな草を見つければ、生きていくために「快」と感じます。

また、自分より強い、凶暴な肉食獣に出会えば、その瞬間「不快」と感じ、反射的に逃避行動に移ります。

極端な例えになってしまいましたが、結局のところ、相手を怒鳴って清々していたつもりでも、それは相手を打ちのめしたことの裏返しです。動物の反応でいえば、相手を食い殺して快楽を感じたことに他なりません。

動物であれば、そこに何かしらの思いが介在することはありませんが、人間に置き換えた場合、相当な苦しみが伴っていることを理解できると思います。

肉食獣に襲われ逃げ惑う、つまり打ちのめされた側の立場に立った場合、そのときの「不快」感には大きな苦しみが伴うことも、いうまでもありません。

快も不快も、それ相応の苦しみのなかで、呼び起される感覚です。

結局、”それ”が私だったの?

無自覚

日常生活を過ごす中で、私の主観から離れたところで、浮かんでは消える様々な思念。快・不快、怒りや喜び、悲しみなどの感情、感情から端を発し浮かび上がる観念。

それを私たちは、「私」と呼び、疑うことなく行動しているのです。しかしそれは、ある場面では病的なまでに心を傷つけ、心をむしばみ、心を支配することがあります。

自分自身の思考も行動も縛り付けられ、まるで「私」ではない誰かに操られている状態。

私という自覚があるのに、無自覚に浮かび上がる観念が心を支配している。

私が抑圧され、自由な意思のまま振舞えていない。

私の思考も行動も奪われる苦しみ。見えない誰かに絶えず怯えている恐怖。

もし、これらが事実であれば、「私たちは自由である」とは言い難く、自分の意思とは関係のないところで、支配されているのかもしれません。

例えば、人間以外の動物のように、自覚がなければまだしも、明確に自己を認識しているにも関わらず、浮かび上がる思念に脅迫され支配されている。

ときとして、観念の暴走が起こり、「私」に対する支配力を強め、「私」の意志とは異なる存在として、影響力を発揮することだってあります。

自覚があるままに、自己の望まぬ方向へ動いてしまう。それを苦しみといいます。

平穏なままに流れる時間

無自覚と向き合う

私もあなたも、隣の誰かも、皆それぞれの境遇で、人ごみに埋もれ、様々な出来事に囲まれながら、毎日を生きています。

周囲の人々の渦は、雑多な感情にまみれ、妄想や思念にあふれかえっています。

銀河の真ん中、誰もいない星にポツンといるのであれば、もしかしたら思念も観念もなく、何の刺激も存在せずにいられるのかもしれません。

でも、この社会のなかで生きるしかない、それ以外に選択の余地がない我々が、苦しまず生きていく術はあるのでしょうか。

平穏な時間が流れ、安穏とした心持で、日々を過ごすための道が存在するのでしょうか。

人間なるが故の苦悩、心の苦しみを如何にして和らげることができるのか。

このことをテーマに、しばらく連載を続けてみたいと思います。


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