6-2.命の浄化

ことあるごとに「私」という観念は意識の中に介入してきます。意識そのものが「私」である、といった幻覚を抱かせながら。

「私」というアバターを巧妙に操り、人間は生き抜いてきました。それが本能であり、脳が獲得した進化の形です。

副作用

「私」を実体と認識させるため、「私」が虚像であることを悟られないためには、常に刺激を必要とします。

人の脳は私を操作するために、喜怒哀楽の感情や、思考や行動を動機づける観念を常に動作させ続けます。「私」の実在感を演出するために、脳は刺激を出し続けるのです。

その「私」感が、地球規模での人間の繁栄を左右してきたことは想像に難くありません。生態系の頂点に人間が君臨できた理由のひとつなのでしょう。

しかしながら、合理的に物事を捉えることが重要視される現代社会においては、感情や観念の恩恵は薄れ、むしろ副作用としての苦しみが目立つようになってきました。

「私」という自我を成り立たせるためには、苦しみがある種の機能として伴います。

動物に近い生活をしていたころは、苦しみが生き抜くための原動力にもなり得たでしょう。苦しいからこそ、それを逃れるために狩りをしたり、逃避したり、集団の中で権力を得ようと試みます。

でも、その苦しみは、いまだに必要なものなのでしょうか?

もしかしたら、これからの世代における意識や心の持ち方として、新たな気づきが必要な局面が訪れているのかもしれません。

人は自己意識という独特な性質を身に着け進化してきました。自分より体が大きく、力の強い動物が多くいた中にあって、人間は生存競争に打ち勝ち、地球全体を支配下に治めるまでになりました。

しかしながら、人間が生き抜くために獲得してきた生存本能には、副作用としての苦しみが伴います。

浄化

私という自我や、それに伴い発生する苦しみは、個々人だけに留まらず、地球上の生態系、生物の生存環境にまで影響を与えてしまいます。

地球環境を破壊し、最終的に自らの行き場を失ってしまうことは、宿主を殺すことで自らの居場所を断ってしまう病原菌と同じです。

それに気づきことが出来ず、盲目的に苦しみを増殖させてしまう人間。人は欲望や怒りのカルマに焼かれても、煩悩による行動を止めようとはしません。

気づけない自分

「私が」といった自意識に囚われている個人や社会に対し、気づきを与えることは可能なのでしょうか。

「私」という自我が消滅してくれたら、そこには自然な平穏さが残るのかもしれません。でも、本能として備わっている自我を完全否定できるかと言われると、かなり無理があるように思われます。

生まれてこの方「私」を疑うことなく、「私」を信じて生きてきたのですから。

苦しみの消滅

もし、「私」を消し去ることができるのであれば、それは即ち苦しみを消滅されることに他なりません。

そして、本能である自意識をなくすことが現実的な選択ではないのなら、なんらかの手段で「私」と折り合いをつけることが求められます。

そうでなければ、人生は苦悩に満ちたものという現実を受け入れざるを得なくなります。それは見方を変えれば、個人と社会の自滅を認めるという事にもなります。

平穏という選択肢

自然の中で生命を授かり、自然の営みのままに、平穏に命を全うする。このような生き方は可能なのでしょうか。

生き永らえ、種を存続させ、なおかつ安穏な生涯を送ることは、如何にして実現できるのでしょうか。どうすれば苦しみを浄化させることが出来るのか。私たちがこれからの時代を生きていくために、解決すべき課題がここにあります。

 

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