1-4.私を操る「私」

普通に私たちが過ごしている日常において、私を支配する「私」のような誰かが存在します。

私たちは、身の回りで起こる出来事のひとつひとつに対して、”快”、または”不快”という判断を瞬時に下しています。そして、快や不快のそれぞれに応じて、笑ったり、怒ったり、悲しんだり、欲しがったりといった感情が現れます。

このような、快・不快や、さまざまな感情が、自らの意志に基づき発現されるということに、疑問を持つ人は少ないのではないでしょうか?

一般的には、怒りや恐れも、喜びや悲しみも、自分自身の内面にあり、自らの意思によるものだと信じられています。でも、少し考えてみてください。

「よし、これから怒ろう」と決意してから、怒り心頭に達する人はいるのでしょうか?

「悲しくなってみたい」と思ってから、泣き出す人がいるのでしょうか。

もちろん、演技ということにおいては、あり得るかもしれません。でも、実生活において、瞬時に湧き上がってくる様々な感情に、自らの意識が介在していると、言い切ることはできるのでしょうか。

快・不快、感情、観念などは、瞬時に、しかも勝手気ままに現れ出てきます。そこに私自身の意識が介在しているとは思えません。むしろ、私たちの意志とは別の、他力によるものと考えるほうが自然な気がします。

操られる私、操る私

操られる私、操る私

なんらかの意味があり、私が支配されているのだと仮定した場合、支配している「私」とは何者なのでしょうか。

そして、私自身は何処にいるのでしょうか。私の主体だと信じ込んでいた私自身は、実は支配されているということでしょうか?

だれが何のために、この私を統制しているのか、しかも巧妙にその姿を隠しながら。

このまま、仮定という前提で話を進めてみましょう。

「私」という存在が何者かに支配されている。私自身の意志が介在できない、あっという間に浮かび上がる怒りや悲しみ、喜びなどの感情。私の好むと好まざるとにかかわらず、常に浮かび上がってくる何かしらの観念。

もし、本当は「私」など存在しないとしたら、感情や観念が「私」を演出していたのかもしれません。

存在していないがゆえに、存在しているように実体化させようとして、刺激を与え続ける必要があったのではないでしょうか。

意識という実態

もちろん、仮定の話ではなく、この私の肉体は存在しています。物体として確かに存在します。

しかしながら、「私」はどうでしょうか。

私の意識も、今この瞬間、ここに存在します。いま、この文章を書いているのは、私自身の意識です。そして、この文章を読んでいるのはあなた自身の意識です。

形としては実在しないかもしれませんが、確かに私の意識も、あなたの意識も実在しています。形はないが、生きている限り間違いなく存在しています。

見せかけるための演出

では、形のない意識を実体化させるためには、何が必要だと思いますか?

私自身に、「私」という意識がここにあると自覚させるためには、刺激が必要です。なんの刺激もなければ、形のない私など、即座に存在感を失ってしまいます。

そして、その刺激こそが、快や不快、喜怒哀楽、観念なのです。どおりで、意識が介在できないほどの一瞬に、自分勝手に出現してきたはずです。しかも、存在感が揺らがないように、いつどんなときにも、常に浮かんでは消え、浮かんでは消えていたのです。

現象としての私

では、意識を実体として存在させようとしているのは誰でしょうか。それは脳であると、あなたは考えたかもしれません。

脳という物体により、私やあなたの意識が生み出されている。つまり、物体が起こす現象として、意識が存在しているということになります。でも、普段私たちは、自分自身を現象だとは思っていません。

何かの結果発生する現象が私なのだとしたら、そのうち消えてなくなってしまうような気がしませんか?

マッチ棒の先に灯る小さな炎のように、ふっと、消えてなくなるのが私なのでしょうか。

壁に映し出された影のように、あっけなくどこかへ行ってしまうのでしょうか。


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